林徳寺の由緒・歴史

 

寺号  鳥屋野院 真谷山 林徳寺

宗派  浄土真宗本願寺派(お西)

本尊  阿弥陀如来

寺宝  証如上人御裏書三百代ご本尊(開基佛)

 

 南北朝時代、関東管領足利満兼の家臣、常陸国新治郡真谷村の真谷彦四郎家里は、永徳3年(1380)下野の国小山の戦いに功績があった。 しかし彼は親鸞聖人を深く敬慕していたため、戦いが終わると世の無常を感じ剃髪して僧侶となり、名を「聖家」と称した。彼は戦乱を避け領地を捨てて、山城国京都在の鳥屋野に草庵を建てて浄土真宗の布教に努めた。

 その後、明応5年(1496)本願寺第8代蓮如上人が大坂石山本願寺を建立される際に子孫が出役し、その完成とともに摂津国西生郡林寺(大阪市生野区林寺町)に移転した。

 本願寺第10代証如上人の代に、本願寺が細川晴元と戦った際に時の当主真谷徳誓が勲功を示し、寺宝として現存している開基佛「証如上人御裏書三百代ご本尊」をいただいた。これを機に、住所の「林寺」と法名の「徳誓」から、現在の寺号「林徳寺」を名乗る事となった。よってこの徳誓を林徳寺の開基としている。

 林徳寺2代、真谷正誓は、大坂石山本願寺と織田信長との石山合戦に奮戦し、戦争終了後、越後国蒲原郡金津庄江口村(新潟市江口)に移住し一寺を建立した。これが現在の林徳寺の始まりである。文禄年間(1592〜1595)の事と伝えられている。 当時は現在の阿賀野川の中州付近は陸地であり、そこに寺地があった。平成10年5月に阿賀野川の川底から多くの樹木が引き上げられた。これが2代真谷正誓の建立した最初の林徳寺境内の名残と考えられている。また、記録によれば林徳寺開基以来の門徒として、    

田辺 安左ヱ門 、

野崎 治左ヱ門 、

三原 六左ヱ門 、

大沢 藤兵衛

小熊 喜之七   、

深沢 権左ヱ門 、

岡田 与左ヱ門

などの名前が見える。

 その後、3代玄覚、4代円覚、5代利玄、6代覚乗、7代恵海と林徳寺歴代住職の努力により、林徳寺の基礎が築かれた。

 6代覚乗は学問の道に研鑚し、優れた実績をあげたと伝えられている。またこの覚乗の時代に、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、当山に立ち寄ったと伝えられている。

 7代恵海の代に当たる正徳4年(1714)には、曽根の野崎家より梵鐘が寄進された。

 その後、川の氾濫により川筋が変化し、それに伴って享保年間(1716〜1735)に一度江口村高見小路に移転、寛政元年(1789)にさらに現在地に移転した。 

 11代乗山は、過去2回にわたる移転によって損傷はなはだしくなった本堂の新築を志し、寛政8年に完成させた。ところが享和2年(1802)、火事のため、新築されたばかりの本堂・庫裏のすべてが焼失してしまった。そのため、本尊、過去帳などはすべて失われたが、開基仏のみは法要のためご門徒のお宅にあり無事であった。文化10年(1813)に、現在の本堂が再建された。これは、将来本格的な本堂を再建するまでの仮本堂として建てられたと言い伝えられている。しかし、仮本堂とは思えないほどの建物であり、現在まで200年近い年月を経ているが立派に林徳寺本堂としての役割を果たしている。この再建事業には、三百地の佐藤忠次郎家から多大の支援を受けたといわれている。

 その後12代乗空は、嘉永4年(1851)本堂裏に保存されていた五尊(阿弥陀如来木像、宗祖聖人・蓮如上人・聖徳太子・七高僧の絵像)の灰を山門近くに埋めて石碑を建てた。これが今に残る五尊灰燼塚である。

 またこの12代乗空は、幼時より学を好み研鑚に勤め、近郷の知識人の一人に数えられた。特に俳諧の道に優れ、茶筅坊蕉園と号して近郷の同好者を指導した。また、松尾芭蕉が6代覚乗の時代に当山に立ち寄ったといわれる伝説を記念して、 芭蕉の直筆を基に門人とともに句碑を建立し、さらにその後毎年9月18〜19日に盛大な芭蕉祭りを行なった。
 句碑には、「稲妻や 顔の処が すすきの穂」と言う芭蕉の句が刻まれている。この句碑も長年の風雪により碑面が摩滅し句を判読し難くなったため、昭和63年秋、江口在住の俳人三原映月氏の寄進により、新たに当寺に残る原本の文字を刻んだ碑が建立された。

第13代住職 諦麟(たいりん)の時代、大正6年(1917)に本堂の屋根を現在の瓦葺に変える改修工事を行った。
 
 第14代住職 誠諦(じょうたい)は書をよくし、江口八幡宮の幟(のぼり)をはじめ多くの作品を残している。お酒を飲んで酔った勢いで、腰を支えられながらその幟を一気に書き上げたなど、逸話の多い住職でもある。この住職の代に「誠心会(せいしんかい)」が誕生した。
 
 誠諦(じょうたい)の娘婿で本来15代になるべき父親と早くに別れた第15代住職 誠慧(現在の前住職)は、第二次世界大戦直後という時代に若くして住職となり、苦労が多かったことと思う。その中で昭和45年庫裏 (くり)新築、昭和62年本堂屋根瓦葺き替えと内陣の荘厳整備など多くの工事を行なった。そのほか墓地の整備も行うなど、現在の林徳寺の基盤を築いた中興者である。
 また同じ誠慧の代である昭和55年には、戦争で供出し失われていた梵鐘を、西野高橋熊次郎家と江口星山幸松家による寄進によって、再び鐘楼門に設置することができた。この際は、稚児行列を行って盛大に慶讃法要を厳修した。これ以来年々除夜会の参拝者が増え、200名近い方が除夜の鐘を撞き甘酒などを飲んで、本堂で新年を迎える姿が見られる。

  平成8年には、現在の16住職 誠祐の住職継職を記念して盛大な慶讃法要を執り行うと共に、親鸞聖人像を境内に建立した。また、平成13年には山門前に寺号碑が建立されるなど、順次、伝統ある寺にふさわしい設備を整えながら現在に至っている。

          

参照資料:『江口のあゆみ』 梅沢岩一 など