問いE
 

 林徳寺様 ご住職様 初めまして。
 メールにて失礼いたします。
 私は子供の頃からプロレスやボクシング等の格闘技を好んで見ていて、子供なので単純に「チャンピオンは偉い=強い人が偉い」と勘違いしてしまい、少しヤンチャをしてました。
 ただ、20代前半にもなりヤンチャしてた頃、警察にお世話になったり、喧嘩相手が病院に入院したりとあり、それ以降は「喧嘩をしたらダメだ」「本当に強い人というのは我慢できる人だ」と思うようにしました。

 ただ、三つ子の魂百までと言いますか、怒りを我慢するとずっとイライラするというか、気になるというか、何も言えない、何も言わない私が負けた、舐められたと考えてしまう、本当に被害妄想の入った、器の小さい人間になってしまいました。
 このままではダメだと心を強くしようと、仏教の教えを本でですが学び、空手を習いました。
 すると小さい事にも気にならなくなったのですが、昨年、結婚をし、二人で住む住居を構えてから、毎日がバタバタし、空手の稽古にも行けない日々が続き、又、弱い心が顔を出してきました。

 長くなってすみません。本題に入ります。
 新居に住み始めた時から夜中の11時頃に、家の前を、大声で歌って通って行くのを耳にしていました。毎日って事でもないし、立ち止まって歌い続ける訳でもないのですが、とにかく大きな声で歌うので、隣家の人達とも「非常識ですよね」とよく話し合っていました。
 先日、私が帰宅した際に、その大声で歌う自転車の高校生と遭遇したので、「夜中にみんな迷惑してるのだから、歌うならもう少し小さく歌って」と、歌ってた高校生に注意しました。
 すると、その高校生は口では「すいません」とは言ってるのですが、態度がふてぶてしいというか、大人を舐めてるというか、とにかく反省している態度には見えませんでした。
 そして私が戻ろうとした時に「うるさいな」とつぶやかれ、久々にキレてしまい、再度注意しました。正直、注意というレベルではなく怒鳴りました。
 ただ、それでもその高校生は心のない「すいません」を連呼し、「舐めてません。こんな話し方なんです」「土下座しますから許してくれますか」と土下座をしました、心の入ってない言い方で。

 私にしても、例え心が入ってないにしても、土下座までされてもう何も言えないので自宅に戻ったのですが、あのふてぶてしい態度、心のこもってない発言に今だにイライラし、今度また、大声で歌って騒がれた時に黙ってたら、注意しなきゃ、相手に負けた、舐められると考えてしまい、外の物音が気になって仕方がなく、毎晩ピリピリと外の騒音に注意を払うようになり、正直疲れています。

 仏様におつかいになられているご住職様のお言葉が、私には何より有り難いのでご迷惑お掛けしますが、相談させて頂きました。
 本当にくだらない相談でご迷惑お掛けしますが、時間が空いた時に一言でも頂ければ幸いです。
 長々とすみませんでした。
 又、乱文をお許し下さい。

住職の答え

 

 メールをいただき有り難うございます。また返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
 いただいたメールを何回も読ませていただき、若い頃、本当に似たような生活をしていたことを思い出しておりました。私も周囲の人間が間違ったことやいい加減なことをしていることに我慢ができず、良く腹を立て、怒鳴り声を上げていました。
 もっとも最近でも、少し収まってきたように自分で思っているだけで、周囲から見れば全く変わっていないのでしょう。思い出すと恥ずかしくなる事がたくさんあります。

 私が腹を立てる原因は、周囲の人間が私の基準から見て許せない言動をしたことにあります。そして私の基準は世間一般の基準とそれほど離れてはいないつもりです。したがって腹を立てる私は悪くなく、原因は一方的に相手にあると言う理屈になります。
 しかしよく考えてみますと、この理屈は今の中国が「反日デモ」に対して言っていることと同じように思われます。「悪いことをしたのに反省しないのだから、どのような強い抗議を受けても当然だ」というのは、見方によってはずいぶん身勝手な言い分です。
 このような言い分の根拠は、「周囲は全て、私の基準に合わせた中で、正常でまともな言動をするべきである」というこだわりにあります。このようなこだわりを仏教では執着(しゅうぢゃく)と言います。こだわりを捨てない限り、私達はこのような言い分や考え方から逃れることはできません。ですから常に腹を立て続け、常に怒鳴り声を上げ、そのたび毎に反省し恥ずかしい思いをするという生活を続けることになります。
 しかしなかなかに、このようなこだわりを捨てることができないのが私という人間です。「人にそんな厳しいことを言えるほど自分は立派な人間なのか!?」と自分を問いつめてみても、「そうは言っても、やっぱり彼のあの行動は許されない」と言った気持ちを抑えきれないのが現実です。
 浄土真宗の宗祖、親鸞が言っているように−「凡夫」といふは、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)我らが身に満ち満ちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、消えず、絶えず(『一念多念文意』)−と言うことなのでしょう。

 ですが、このようなこだわりは決して無くならないのだから、そのままで良いんだと居直ってしまうことも大きな間違いです。これは、こだわりという煩悩は無くならないと言うことにこだわった姿です。これもまた立派な執着で、捨て去るべきものです。
 このように、煩悩を無くそうと思っても無くすことは難しいことですし、かといって無くならないのだと居直って暮らすことも間違いです。
 私にできることは、「気づく」と言うことだけだと思います。私は残念ながら死ぬまで無くならない「煩悩」という大変なものを持った存在であることに気づく。そのような私であればこそ見捨てることができないと、阿弥陀仏(亡くなった先祖やその他の方々は全て仏となって、阿弥陀仏と等しい悟りをひらいておられると私はうけとっています)は常に見守り続けていてくださることに気づく。
 このようなことに気づくことによって、私が変わっていけるのだと思います。周囲に変わることを求めるのではなく、自分が変わっていくことが先ず大切なのだと思っています。これも私が気づいたことの一つです。

 先ほど書きましたように、私もいまだに腹立ちを押さえることができません。怒鳴り声も上げてしまいます。けれども、常に多くの仏様達が見守っていてくださると信じて生きることによって、少しだけですが、心に余裕が生まれたように思います。また怒りの気持ちがこみ上げるたびに、今私が教えられていると、受け取るようにもなりました。

 ご質問にあった場合を考えますと、やはり注意するべき時はしなければならないでしょう。
 ただできれば、今自分が求めている基準を一方的に押付けて良いのかと、ちょっと立ち止まることができたら良かったのでしょうね。相手には何か事情があるのかも知れません。その事情を聞いてみれば納得できることもあるでしょう。また注意したあとの反省の様子も、その人によって違うでしょう。特に最近の若者には、いかにもやる気なさそうな姿勢を見せることが流行のように見受けます。外見と心が同じとは限りません。いかにも誠意を見せてわびを言った人が実は全く反省していないという例も多く見受けるのが現実ですから。

 私も、このご質問のようなことを何回も経験しましたし、後であんなに怒るんじゃなかったと反省したこともたびたびです。「私を見守っていてくださる阿弥陀様は本当に大変でいらっしゃるなあ」と思えてきます。
 しかし、そのような反省すべき出来事のたびに、私が周囲の方々から教えていただいた、ありがたかったと受け止めて、その教えを無駄にしないようにしなければとだけ、心がけてきたつもりです。○○さんは私よりも遙かにお若いのに、ご自分を良く観察しておられ、多くのことに気づいておられるようです。私が同年代の頃のことを思いますと、恥ずかしい限りです。

 お答えにはなりませんが、私の勝手な思いを長々と書き連ねてしまいました。ご笑覧ください。合掌

頂いたご返事

 

 林徳寺様 ご住職様
 昨日、ご住職様より有り難いお言葉をかけて頂いた○○です。
 返事が遅くなりまして、大変申し訳ありません。そして、有り難いお言葉をかけて頂き、本当にありがとうございます。
 優しい、有り難いお言葉に、心が暖かくなり、イライラしていた気持ちが凄く楽になりました。本当にありがとうございます。
 自分の意見を押しつけるだけの私も、早くご住職様のような立派な大人になれたらと思います。お忙しい中、私なんかの為に本当にありがとうございます。
 ご住職様と知り合えた、素晴らしい縁も仏様のお陰と思います。今後ともよろしくお願いします。

住職の返事
 

 早速のご返事有り難うございました。私の方こそ、せっかく私のようなものにご相談いただきながら、時間ばかりかかって、しかもろくに返答にもなっていない長文を一方的に送りつけてしまったことを、本当に申し訳なくまた恥ずかしく思っています。
 私は年齢は50才に近くなり、人生の経験もそれなりに積んできているはずなのですが、それが少しも身に付いていないことをたびたび思い知らされています。ここでは恥ずかしくて具体的には書けませんが…
 ○○さんに「立派な大人」と書いていただいた事、本当に恥ずかしく思うとともに、これからの私の生きる目標を示していただいたものとも受け止めて、いただいた生命が続く限り、精一杯、力一杯生き抜いていきたいと思っています。

 宗教に出会うと言うことは、生命が終わった先のことが自分なりに定まると言うことです。卒業後の進路が定まった学生のような心境になれると言うことでしょうか。そのような心持ちになって初めて、人生を本当に生きることができるように思います。心に少し余裕を持って毎日を送れるようにも思います。そして周りの様々なことを、少し冷静に見ることができるようになるのかも知れません。逆に言えばそのような心境にさせてくれるものが、私にとっての本当の宗教であるといえます。その意味で私は、南無阿弥陀仏の教えに出会えたことを本当にありがたく思っています。

 親鸞の和讃(わさん−日本語で仏の教えを讃えた歌)に、「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重(ひゃくじゅうせんじゅう)囲繞(いにょう-とりかこむこと)して よろこび守りたまふなり」とあります。
 私達は、たとえイヤだと言っても、多くの仏様方に取り囲まれてしまって生きているという風にも受け取れます。前にも書きましたように、私の先祖をはじめ多くの先だって往かれた人たちは今、仏様になっていらっしゃると私はうけとっています。ですから私は、祖父母をはじめとする多くの人たちに常に取り囲まれてしまっていると言うことです。
 私の言動の一つ一つに、仏様達はどんな思いでいられるだろうか?と思いますと、恥ずかしいばかりです。そのことに気づくことができて、まずは良かったと言うしかありません。気づかないでいたら、取り返しのつかない恥ずかしい人生を送ってしまっていたことでしょうから。

 今回は私の勝手な思いを長々とお読みいただき、本当に有り難うございました。○○さんが、仏様に見守られ続けながらの人生を、これからも力一杯生き抜いてくださることを願っています。合掌


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問いF
 

  私は祖父母の影響で子供の頃から仏教を信仰していて、常に仏様のお陰と思い生きています。
 今まで何度か事故になりかけたり、いろんな危機的状況もあったのですが仏様のお陰で助けて頂いております。
 周りからは「本当に運が良いよね」と言われるのですが、私は「運が良い=仏様に見守って頂けるお陰」と思っています。

 そんなに感謝しながら生きているくせに、自分の思い通りにならない時や嫌な事があった時に、ひねくれ者の心や天の邪鬼の心が顔をだし、一番信頼している仏様に対して「何でこんな目に」とか「本当に居て下さるのかな」と大変失礼な事を思ってしまいます。

 自分自身、こうしてご住職様のような、ご立派で優しいお方とご縁が出来たのも、また、妻や友人等、人との出会いも、毎日無事に生活出来るのも仏様のお陰とちゃんと分かっているので、そんな失礼な事を思う自分が情けなくて、恥ずかしくて、嫌になります。
 いつか仏様といえども、こんな失礼な事を思ってしまう、私を見捨てられてしまうんではないかと凄く心配になり、変な考えと自覚しておりますが、「自分の好物の食べ物をもう二度と食べないので許して下さい」と訳の分からない事を思い、どんどん好物の食べ物を我慢してる毎日です。

 とにかく、一番自分の事を見守って下さる仏様にそんな事を思ったら駄目と思えば思う程、失礼な事を思ってしまい、自分が情けなくなります。

 こんな私でも、仏様は見捨てずに見守って頂けるでしょうか?
 また、こんな私は、仏様を信仰する資格があるんでしょうか?

 

住職の答え

 

 メールを有り難うございます。
 多くの方から様々な形でお話を聞かせていただくことによって、私自身も自分を振り返ることができますし、普段積みっぱなしになっている書物にあらためて目を通す機会にもなって、ありがたいことであると思っています。

 さてご相談いただいた件ですが、まさに唯円房と親鸞聖人の会話が「歎異抄」から聞こえてきたような思いでありました。
 私も真宗僧侶の端くれとして、一人前のなりをして法話をさせていただき、阿弥陀様の教えのありがたさを話しておりますが、その実、心の中で思っていることはとんでもないことばかりです。法要の場では今日のお布施はどれくらいいただけるのだろうかと思ってみたり、今日は調子よく声が出ているぞと密かにほくそ笑んでみたりと、浅ましい限りです。
 そんな思いで読経していることで、佛恩報謝、佛徳賛嘆になるはずがないとわかっているのですが、そのような思いが次から次へと湧いてしまうのが私であります。
 「私もそう思って不安だったのですが、あなたもですか」と、親鸞聖人が唯円房におっしゃったように、私も申し上げたいと思います。

 ただ聖人と異なり、その後のフォローが私には思うようにできません。ですから私自身の受け取ったままを書かせていただき、お許しいただこうと思います。

 私にとって阿弥陀様は母親であります。
 「悪いことをしたらもう家には入れられないんだよ!!」と叱ってくれる母親であります。しかしこの言葉は、「おまえを信じているよ、期待しているよ」と言う思いの現われであると受け取っております。どんなに叱られてもつい悪いことをしてしまい、つい間違ったことを口にしてしまう私であります。そんな私を見捨てることができないばかりに、叱らずにはおられないのが母親でありましょう。
 子供の頃どうしてあんなに母を困らせ嘆かせてしまったのかと、今でもそのころのことを情けない思いで思い出すことがありますが、それでも母は私を見捨てずに育ててくれました。どんなに叱った後でも、ご飯を食べさせてくれました。身体を気遣ってくれました。今もいい年になった私を心配してくれています。

 阿弥陀様も、そして今は御浄土において阿弥陀様と等しい悟りを得て仏様となっておられる多くの方々も、人間である母以上に私を気遣い、私を信じ、私に期待をしてくださっていると思っています。その期待に応えられないことは残念ですし申し訳ないことです。けれどもそのことに気づき、そのことを信じて生きていかれることがありがたいことです。
 あの母に叱られているばかりであった私と今の私は別人ではありません。ただ少しずつでも学び、気づくことによって、多少は叱られずにすむように変わってきただけのことです。
 阿弥陀様の思いに気づくことがまずは大切だと思います。

 阿弥陀様は決して○○さんを見捨てることはありません。○○さん一人を救うために阿弥陀様はいてくださるのですから。
 阿弥陀様は○○さんを救ってくださったからと言って○○さんに何かを求めることもありません。阿弥陀様にとって○○さんを救うことだけがその存在の目的だからです。
 歎異抄に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と有るとおりです。
 もちろん、上記のことはそのまま私自身のことでもあります。
 子供は何人いようとも、母は全ての子供にとって母であり、子供一人一人が母にとって等しく大切な唯一の子供でありますから。

 こんなすばらしいことがあるでしょうか。このように信じて生きることのできるよろこびは、どのように表現して良いかわからないことです。
 「み仏の恵みを喜び、互いにうやまい助けあい、社会のために尽くします。」と浄土真宗の生活信条にありますが、私も、せめてそのような生活に近い暮らしを送りたいと願っているのみです。

 私のことを思って叱ってくれた母に悪態をついていたように、母親以上の思いで私を見守り続けてくださる阿弥陀様がいてくださるにもかかわらず、相変わらずろくでもないことを思い、話し、行動している私であります。
 けれど阿弥陀様は、母がそうであったように、私を信じ続けてくださいます。それが私の唯一の生きる頼りであります。

 そして同じ阿弥陀様を母と慕って生きるもの同士は互いに兄弟です。御同朋、御同行と聖人が言われたとおりです。
 ○○さんという新たな兄弟を得ることができ、本当に喜んでいます。
 

頂いたご返事

 

住職様のお言葉、本当に嬉しかったです。
本当に有り難かったです。
本当に心が暖かくなりました。
本当にありがとうございます。

阿弥陀様は母親である。凄く分かりやすく、凄く重いお言葉です。
また、私なんかを兄弟と言って頂き、大変嬉く、また恐縮です。

この住職様に頂いたお言葉を胸に、仏様への感謝を忘れずに頑張って生きていきます。

いつの日か、林徳寺様へお伺いさせて頂き、住職様とお会いさせて頂ければ幸いです。

本当にありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
 


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問いG
 

 突然のことで申し訳ありません。私は寺院の住職後継者で、龍谷大学を卒業し、現在は民間企業で働く40歳の者です。今後現住職の老齢化に伴い、本格的に法務に従事しなければなりません。そこで、現在非常に致命的ともいうべき悩みがあります。
 僧侶にはつきものの「法話」をしなければならないことです。何を話したらいいかわからず、恥ずかしながら教義自体もあやふやで、その上、人前で話をするのが大の苦手ときています。
 以前ある住職さんにこのことをお話したところ「伝えたいことがないのに人の前で法話はできない」と、ごもっともな回答をいただきました。
 残念ながら、伝えたいこと・・・・と考えても出てきません。職業上、やらざるを得ない状態なので・・という誠にいい加減なことですが、このような僧侶は全国でも多かれ少なかれ、いると思います。
 そこで、今後どのようなことに取り組んだらいいのか、教義の理解も含めて法話の組み立て等(参考になる書籍、アドバイス)をご教示いただきたくメールさせてもらいました。よろしくお願いします。
 

住職の答え

 

 メールを有り難うございます。

 私は工学部の出身で、中央仏教学院で一年間真宗について学んだだけの人間ですから、御聖教に基づいて専門的に教えを説くことはとてもできません。ただ「自らが信じることを信じるままにお話をする」ことだけを心がけています。すなわち、一般的な人間全般に当てはまることとして語るのではなく、私自身のこととしてのみ語ると言うことです。

 「罪悪深重の凡夫」とは私のことであると人の前で話すことは、恥ずかしいことです。その具体例はいくらでも思い浮かびますが、それを口にすることはなかなか難しいのが正直な気持ちです。けれども、それを正直に語ることが私にとって唯一の法話の手段です。こんな私だからこそ見捨てることができずにいてくださる阿弥陀様を信じることが、私の唯一の生きる力であるとお伝えすることしか私にはできません。

 そしてこんな私も、阿弥陀様のお働きによって、何時か生命終わったときに浄土に生まれさせていただき、仏と呼ばれる身にさせていただけると信じて生きていける喜びを語ることができることも、私にとって何よりありがたいご縁です。

 何時かこんな私が、多くの方に仏様として拝んでいただけると思うと、本当に申し訳なく恥ずかしく思われます。できるならばそれにふさわしい生き方をしたいと思うのですが、少しもそのような生き方ができません。それでも私は仏様にさせていただけるのです。後に続く子や孫を、いつでもどこででも見守り続けることができるのです。そして「あ〜よく頑張って生きてきたな、偉かったな。」と迎えてやることができるのです。そう思うと、本当に申し訳ない自分ではあるけれども、生きる喜びがなお一層湧いてくるのです。

 私の法話というのはこんな事をただ語るだけのものです。歎異抄の御文や正信偈の御文を引いて少しはそれらしく体裁は整えているつもりですが、全く法話とは言えないものです。

 最初は人前で話すことは苦痛だと思います。けれども、同じ話を何回も繰り返して話しているうちに、だんだん慣れてくるものです。話の種は一つあれば十分です。落語家は同じ話を何回もするのですから、少しも悪いことではありません。

 ただ「以心伝心」というように、心は心によってしか伝わりません。私の味わった心をそのまま聞いてくださる方に伝えたいという思いを忘れずに、語っていくことが必要であると思います。

 「伝えたいことがないのに人の前で法話はできない」というのは本当であると思います。私自身の心を伝えるのですから、心がなければ伝えることはできないはずです。

 授業のように、今日はこれを覚えてもらおうという事であれば、教科書を元に話をすることは簡単です。けれど法話は何かを覚えてもらうためにすることではありません。私の心を伝えるためにするものです。自らのよろこびをお話しいただくことから始められては如何でしょうか。

 何の力にもなれませんが、自分の話を自分が聞く事も聴聞です。聴聞を重ねていくことが何より大切だと私自身が感じたことをお伝えして、返事とさせてください。


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