これまで頂いたご質問とその回答

 

 これまで、このHPをご覧くださった方から、いくつかのご質問をメール等で頂きました。
 それに不十分ながらも、住職の出来る範囲でのお答えをさせていただきました。

 ここにその内容を紹介し、ご覧くださった多くの方からのご意見をお聞かせいただきたいと思い、掲載することといたしました。但し、ご質問くださった方が特定できる可能性のあるものなど一部の内容は、住職の責任において削除 あるいは改変いたしております。

 このページをご覧になっての感想、ご意見等がございましたら、「掲示板」に書き込んでいただくか、表紙に掲載したメールアドレス宛にメールを頂きたいと存じます。
 なお、各問いは下へ行くほど古くなっています。問いの番号をクリックしていただくと、その内容をごらんいただけます。 
 

問いI 子供を持つことについて 2006年9月
問いH 現代の日本における仏教音楽について調査しています 2005年9月
問いG 法話の仕方を教えてください 2005年7月
問いF こんな私でも、仏様は見捨てずに見守って頂けるでしょうか? 2005年5月
問いE   怒りを我慢すると、何も言わない私が負けた、舐められたと考えてしまいます 2005年4月
問いD 「及ばざるは 過ぎたるより まされり」と言う言葉は、どのように受け取ったらよいのでしょう 2005年2月
問いC 出家の意義を教えてください 2004年2月
問いB  浄土真宗門徒がクリスチャンの女性と結婚したいのですが 2003年11月
問いA 霊は平生にはどこに居られるのでしょうか? 2002年9月
問い@ 夫が住職を継職する意志のない寺を廃寺にしたいのですが 2002年6月

 
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問い@
 

 私は、現在43才です。実は、夫が住職をせまられています。親とは別居していますが、子供は高校1年、娘は中学1年です。夫は一人息子で、兄弟や親戚は、まったく1件もありません。夫は、寺をつぐ意志はなく、別居して18年になります。(もちろん今は、持ち家に住んでいます)

 私自身は、一般の家庭で育ち、寺のしきたりについては無知です。夫が自分の意志で住職の道を選ぶのであれば、私はついていくしかないと思っていますが、寺を辞めるということが現実に可能なのかどうか自分のおかれている状況について認識しておきたいと思っています。
 

 この3月に義父 の住職が亡くなり、次期住職として義母がたとうとしています。ご門徒数は、遠方者を入れ、名をすべて書きつらねても、50件。実際には24件ほどの小さな寺です。これから先のことを考えると寺院の維持も難しく、また、仕事との両立も厳しいものがあります。実際、前住職も教員生活をした自分たちの年金で寺を守ってきたようです。おつきあいのある近隣の住職さんのお話では、「寺を辞めるのなら、そうとうの金額を支払うことになる」と、言われています。

 別居したときから、遺産関係は放棄するつもりではいましたが、自分たちの預貯金まで差し出すことになるとは・・・。

 寺の常識がない私には、まるで、詐欺にでもあったような気分になりました。これが「宗教」と言えるのでしょうか。今までありがたく拝んできたことに逆に裏切られたように思いました。本当に廃寺にすることは、数千万ものお金がかかることなのでしょうか?
 

 廃寺など、子孫に恵まれている家では、ありえないことなのかもしれませんが、ご存じでしたら、教えてください。アドバイスをいただければ、大変ありがたいです。

住職の答え

 

 メールをありがとうございました。
 私も廃寺(正式には解散というようです)についての詳しい知識はありませんが、それほど多額のお金がかかることは無いはずです。
 ただそれぞれの寺院が定める寺院規則に、解散した場合の「財産の帰属」についての定めがあるはずです。これはその寺院によって内容が違います。

@解散当時の住職に帰属する
A責任役員の2/3以上の同意によって選定されたものに帰属する
B精算人が責任役員の同意を得て宗派または宗派の行う公益事業のために処分する 
などの規定があります。

 また解散するためには、門徒総代に諮問し、責任役員の2/3以上の多数の議決を経、総長の承認を得た後、所轄庁に認証の承認を得る といった手順になるようです。

 いずれにしても、お金は何千万もかかるということは無いはずですが、手続きは決して簡単ではありません。これは、宗教法人を簡単に設立したり、解散したりができないようにするためのものであると思います。
 なんといっても宗教法人は税金面の優遇など、商売に使えば得になる面が多くありますから。細かな手続き上のことは教区教務所に問い合わせてください。教えてもらえるはずです。

 その前に、家族の皆様でよく相談をなさってください。
 信心をいただき、念仏の日々を送ることと、法人としての寺を守ることは、必ずしも両立しなければならないことではないと私も思います。

 しかし、寺を守るためには経営者的な考えを持たざるを得ず、悲しい思いをすることがよくあります。ご門徒が亡くなりお葬式があるというとき、悲しく切ない思いと収入があるためにホッとする思いと、どちらも心に浮かんでくるのは自分ながらに許せない思いがいたします。

 しかし寺という組織が守られればこそ、お念仏の教えが残されていくことも事実かもしれません。
 というより、そう思うことによって、自分を励ましている毎日です。「寺は残ったが、念仏の教えが消えてしまった」と言われることだけは無いように!! と心がけていきたいと思っています。
 お役に立てず申し訳ありませんが、よく話し合われて、ご家族はもとより、ご門徒の皆様にも最もよいと思われる道を選んでくださいますよう願っております。                                                                                                    

頂いたご返事

 

 さっそくのお返事ありがとうございました。
 きょうは、門徒総代と夫と私の3人で、同じ組の大寺の住職さん、坊守さんに相談に参りました。
 お返事のとおり、数千万のお金がかかることはないが、諸手続き等で100万ほど、また、寺をとりこわし、平地にするまでの費用は、別途かかることになるだろうというお話を伺ってまいりました。建物の中身の処分にはそれ相応の費用がかかる時代なので、500万は覚悟することになりそうです。
 現在は、義母が高齢ながら、住職に就くことになっています。問題は、義母が亡くなった場合のこととなるのですが、ご門徒さんの意志があれば、寺を存続させるために、「他から住職を招くなど、方法はある」とも言われました。
 これまで、ご門徒1件につき5千円の年会費?をいただいているだけ(結局20万にも満たない額でした)で、瓦の修理など、寺の修繕費なども、前住職の年金でまかなってきたようです。ご門徒の意識を変えていかない限り、今後の寺の維持は、大変難しいと思います。
 子どもたちが成人するまで、代理住職をたてて解散まで、もう少し、間をおくという方法もあると言われてきましたが、夫は、ともかく継ぐ意志はないようです。見ず知らずの方に相談にのっていただき、ありがたく、心から感謝しております。これも仏様のめぐりあわせでしょうが、本当にありがとうございました。                                                                                                                   


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問いA
 

 前略

 真に不躾ではありますが、兼ねがね疑問に想っていることをお尋ね致します。盆になると先祖霊を迎え、また送ると云われています。そうなると霊はお墓やお仏壇、お位牌、はたまたあの世とやらを行ったり来たり、何かと急がしそうで落ち着きません。

 霊は平生にはどこに居られるのでしょうか?
 

住職の答え
 

 メールをいただきありがとうございました。
 「お盆」という行事は「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経に基づいて行われている行事です。このお経には、お釈迦様がお弟子の目連(もくれん)に対し、亡くなった母親が餓鬼世界で苦しんでいることに対して救う道をお説きになったことが書かれています。すなわち7月15日の僧自恣(そうじし):雨季の修行期間である夏安居(げあんご)の最終日に、参加者全員が修行中のことを反省し罪を告白懺悔すること:の日、すべての僧に食物などの布施をすれば母親を救えるというのです。
 これを受けて「施餓鬼」という法要をお盆の時期に行う宗派も多くあります。
 お釈迦様がこのお経で言われていることは、「自分の母だけを救うという利己的な世界を打ち破り、もっと広い世界へ出なければなりませんよ。父母の恩は深いけれど、その世界のみに閉じこもっていてはいけませんよ。」ということなのでしょう。
 私達浄土真宗では、故人は皆、阿弥陀様のお働きによって浄土に往生を遂げていると受け取らさせていただいております。よって、餓鬼世界におちている先祖などいるはずがありませんから、「お盆」は先祖のご恩を改めて思い、先祖を敬い感謝する行事であると受け取っております。
 さてご指摘の「お盆」に先祖霊を迎えたり送ったりすると言う一般的に言われていることですが、これはどちらかというと仏教と言うより儒教の影響による考え方です。
 儒教では人間は精神と肉体から成り立っていると考えます。精神を主催するものを<魂(こん)>、肉体を主催するものを<魄(はく)>といいます。
 生きてあるうちは<魂・魄>が共存していますが、死ぬと<魂(こん)>は天へ浮遊し、<魄(はく)>は地下へ行きます。再び<魂・魄>が結びつくことによって先祖がこの世に帰ってくることができる、というのが儒教的な考えです。そのために<魄(はく)>のよりどころであるお墓が大切になります。「お盆」にお墓参りをするのは、この考え方からでしょう。
 お釈迦様が説かれた仏教は、このようなことを教えていません。今でもインドでは死者を火葬するとその遺骨は川に流してしまいます。日本でも、お墓が全くない地域があります。お寺に共同墓地が一つあるのみで、その地域で亡くなった方の遺骨はすべて同じところに埋葬されるのだそうです。
 ただ、仏教が中国を通って日本に伝わる間に、儒教の影響を強く受けたことは確かです。そのため日本の仏教では、本来の仏教にはない独特の考え方、行事が多くあります。
 私達は、今は浄土に往生され仏となられたご先祖が、仏の智慧と慈悲の心を持って常に私達を見守り続けていてくださると信じ、その先祖を敬い感謝させていただく場として、お墓やお仏壇にお参りしたいものです。
 なお、儒教について詳しいことは、大阪大学の加地伸行先生の著書などを参考にしていただければと思います。

頂いたご返事
 

 此の度は私の稚拙な質問に対して、ご親切、ご丁寧な返信メールを頂き有り難うございました。
此の度の疑問についてはその道の識者にお伺いする他は無く、インターネットを利用して発信させて頂き、重複していなければ全国330の御寺へEメールを差し上げました。
 数を把握していませんが寺院のHPにも記入させて頂きました。その内の130を超える御寺からご返信を頂き、ご協力を有り難く感謝しています。

 お尋ねした疑問の端緒は茨城の物理学者が命は質量を持ったエネルギィであるとの実証談を、NHKラジオ放送でお聞きした事が発端です。これはこれまで曖昧であった命即ち霊というものが、肉体から離れて存在することを物理的に証明した一例です。
 何kgもの荷物を持ち運ぶエネルギィを持つ人が亡くなり、その持てる潜在エネルギィはどこへ行くのかという疑問も未だ残ります。
 しかし、それらの疑問が解けなくても、生きている者の生活を妨げたり、命を危うくする直接原因にはなりません。ところが、世界には稀に宗教教義をどのように理解したのか、教祖や宗名、その大義名分によって他を排し人を殺めた時期があり、古今東西を問わず発生した犯罪の事実があります。
 
 ご教授頂いた返信メールを一つ一つ読ませて頂きました。
 精霊や成仏の有無について率直に判らないと仰る方、教義との不一致や矛盾を認めていると仰る方、有無の証が無ければ有ると仰る方、有ると言えば有り無いと言えば無いと仰る方、仏教伝承伝来経過によって元の教義から離れて変遷したと仰る方、論点を外して述べられる方などに概ねお考えが分かれました。
 有無の証が無ければ無しと仰る方は少数でした。
 仏教はおろか宗教に疎い私のような者とは違い、僧職の専門家でもこれほどに結論が異なるのは意外でしたが、一面ではその程度に曖昧でも良いことに安堵感もあります。
 
 しかしこれは、霊や仏の供養行事が方便に使われていないかという危惧を導きます。
 私自身は特定の宗教を支持も肯定もしませんし、他人が信仰を寄せている物が何で有れ否定もしません。故に私は自身で模索し実践して極めた倫理(神:判断基準)で生きています。ただ、亡父母の位牌、墓所、仏壇、法事を見る時、宗派によって、あるいは導師によっては、有るものを無しとし、無いものを有るとして読経を聞くとき、これほど無意味で虚しい事はありません。この虚しさは亡父母の霊の有無を問うのではなく読経される御僧職の心中や如何にと察するからです。
 
 頂いた返信のお話に依れば釈迦牟尼は霊の(有無)について決断してはいないそうです。とすると問題は霊の有無に留まらないことになります。
 仏教は釈迦牟尼が決断していない思想のままで伝承されるべきで、後世の者が釈迦牟尼に成り代り補足したり新たに決断を下してはならないと想います。釈迦牟尼思想が唯一の仏教思想の根源として真理なら本来の説に立ち返るべきと想います。霊は物故者を想う者の心に帰りまた宿るとの説にはこの理由で納得し難い所があります。他説の、霊ではなく仏に成ると言われる説にもその理由で納得し難い所があります。
 明確に有るものは有りとし、明確に無いものは無しとして、更に未定のものは未定のままで論を展開しなければ矛盾が生じます。

 宗教教義の本来は現世を自身がどの様に生きるか、を指導するものと想います。故に遠い祖先を想って、どのような家系で生まれて来たとか、死後に精霊や成仏になるか成らないかではなく、更に子々孫々の心に宿る事ではないと想います。

 ご返信を頂いた中のあるご住職がご指摘のように、仏法の本来の姿から離れて経済的理由から霊や仏を実在と仮定する必要性がある、との説にはあからさまな現実を正直に語っておられると想いました。

 時折しも、除霊能力有りとして著名を馳せた住職が逮捕されました。これに似た例は数限りなくあるようです。これらはすべて釈迦牟尼の思想を真理としてそのまま伝承して来なかった故が原因ではないでしょうか。釈迦牟尼の思想に従うのなら個人の倫理感や思想で曲解することなく、釈迦牟尼の思想を純粋に唯一無二の真理として受け入れ、統一された思想による布教が必須と考えます。真理とは時を経て不変です。

 実在したとされる釈迦牟尼の思想が唯一真理なら伝承者によって唯一思想が歪められて多宗派に分かれたのは釈迦牟尼の真意ここに在らず、は言い過ぎでしょうか。

 固有名詞の神や仏やいわゆる救い主が居られたとすれば、地球有史以来の人類に遍くその機会に恵まれなかった者へ、機会均等の不公平をどのように説明するかという新たな疑問が湧きます。救い主とはそのように人に不公平な存在でしょうか。故に私は従来の知り得る既存宗教思想から離れ、生きる上での判断基準を自身で設定しました。

 若し私の判断基準に誤りがあればその都度の反省で改める積りでいます。自立とは自身で考え行動する事と想います。自身で考えられない者は、他人の考えを参考にする他は在りません。他人の考えを選択しこれを信用するか、信頼するかは判断の分かれる所です。判断基準の何をどのように選択しても、結果は選択者自身の責任です。結果が及ぼす影響が選択者自身のみに留まらない場合は、無責任な判断で周囲を不仕合わせに巻き込んではなりません。その意味で選択の結果責任は重大であろうと想います。

 此の度は私の稚拙な質問を契機に多くのご住職方の深いご親切を受け、改めて私自身を反省する機会となりました事を感謝しています。
 有り難うございました。


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問いB
 

 突然のメール、大変失礼致します。今抱えている悩みについて良いアドバイスをいただきたくメールをしました。早速ですが、今私には結婚を考えている女性がいます。

 その女性というのは、日本人ではなく海外の方です。本当に心から愛し合うことの出来る方で、今2人でいつも結婚した後の生活を夢に見ながら話をしています。しかし、どうしてもこの2人には1つだけ大きな考えの違いと言いましょうか、よりどころとなるものの違いがあります。それは、宗教です。私は、浄土真宗本願寺派つまり、親鸞聖人のみ教えを心のよりどころとして、今の女性とめぐり合えたこと、つまり、複雑に絡み合う中でのご縁であるとして、大切に時間をすごさせて頂いております。一方彼女はクリスチャンです。お互いそれぞれ自分のよりどころなる宗教を持っています。
 私自身も彼女自身も2人が結婚に向けて大切に1日1日を過ごさせて頂いておりますが、私がどのようにこの問題に対して理解をしていいのか1人で考えても答えが出てきません。彼女は、宗教は関係ないと言ってくれますが、私の中では素直に受け止めることが出来ません。
 私の勉強不足であると反省しておりますが、浄土真宗(親鸞聖人)は上記のようなことについて、どのような教えを私たちに教えて下さったのか、是非、アドバイスを頂けたらなと思い、メールを致しました

住職の答え
 

 メールを有り難うございました。
 ご質問について私には適切なアドバイスはできませんので、河村とし子先生の著書「み仏様との日暮らしを−キリスト教から浄土真宗へ−」の中の一節を紹介いたします。

 河村とし子先生は熱心なクリスチャンでしたが、浄土真宗の門徒と結婚されました。戦争のためご主人の郷里、山口県萩市に疎開をされ、そこで熱心な御門徒でおられたご主人のご両親と暮らすこととなりました。
 

 当初は毎晩のように聖書を持って、キリスト教に改宗させようと、ご主人のご両親にキリストの教えを説きつづけられたそうです。それを本当にうれしそうにご主人のご両親は聞いておられたそうですが、もちろん寺参りをおやめになるはずもなく、お念仏を喜ぶ毎日を送り続けておられました。
 

 その後、河村とし子先生が様々なご縁で同じ念仏喜ぶ身になられたときに、おばあちゃん(ご主人のお母様)にそのころのことをたずねて、「あのときはどんなにか情けなかったでしょうね。よくあんなににこにこして、毎晩毎晩聞いてくださったことですね。」といわれたそうです。
 

 それに対しておばあちゃんは、「いやのう。ちょっとも情けないとも思わんし、腹が立ったり、悲しかったりということはちょっともなかった。こうして毎晩、一所懸命キリスト教を説きにきてくれるこの嫁だけど、ご縁があってうちの嫁になった人じゃから、如来様におまかせしときゃええと私は思うとった。」と答えられたのです。

 私も、すべては如来様におまかせするしかないと思います。死ぬまで信じるものが異なったままかも知れませんし、どちらかに惹かれて変わることもあるかも知れません。いずれも私たち人間のはからいを超えた世界のことでしょう。また、もし異なるものを信じたまま命を終えたとして、その先がどうなるのかは、いよいよ以て私たちには「まかせる」ほかどうにもならないことです。

 私は、阿弥陀様から命をお預かりして、今生かさせていただいております。従って私の人生の中で、私の力で決めたこと、私の力でなしとげたことなどただの一つもないと言わざるをえません。命さえも預かりものなのですから。

 多くのご縁によって今の私があると感じるごとに、すべての出会いは尊いものであったとつくづく思われます。その時その時を精一杯生きることの積み重ねが人生ですが、ご縁は大切にしたいと思っています。その結果は、おまかせするしかないのではないでしょうか。

 何のアドバイスにもならず、誠に申し訳ありません。お許しください。

頂いたご返事
 

貴重なアドバイス大変ありがとうございました。
実は、このメールは友人の代理としてこのことについてご相談させて頂きました。
お伝えしたところ大変喜んでおり、胸のつかえが取れたと申しておりました。
又何かありましたら又ご相談させて頂きます。
ありがとうございました。

 


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問いC
   突然すみません。出家の意義を教えて下さい。お手数お掛けしますがよろしくお願いします。
住職の答え
 

「出家の意義」と言うことですが、この場合の「出家」とは「僧侶になること」を意味すると考えて良いのでしょうか?

 私は浄土真宗の僧侶ですが、この宗では、宗祖『親鸞』自らが正式に妻帯して非僧非俗(僧にあらず俗にあらず)の生活をされました。その流れを受けて、私たちも先祖代々一般の方と変わらない生活をしています。これは、阿弥陀如来の願いが、特別な修行をしたくとも出来ない者を、阿弥陀如来を信じ、その働きにまかせてさえくれたならば必ず救うという願いであるからです。 

 この願いを信じて、阿弥陀如来の働きにまかせ、必ず救われると定まった身を、精一杯生き抜くことが私たちの生き方です。

 従って浄土真宗において僧侶になることは、普通の生活をしていく中で、「非僧非俗」の「非俗」の面に少し重点を置いた暮らしをします、と自らに宣言したようなものであると私は考えております。決して特別な、偉い人になることではありません。

 ただそれを勘違いしてしまいがちなのが、私たちの大きな問題であると思います。

 又、本当に「非俗」の面がその生活にあるの?と疑いたくなる生活をしているのも私たちです。

 今この文を書きながら、あらためて私のこれまでの生き方を振り返って、ああ恥ずかしいことだったと、反省させられたことでした。良いご縁を頂いたことを感謝いたします。

 出家の意義にはなりませんでした。申し訳ありません。

頂いたご返事
  ありがとうございました。現在、在家の信仰をしています。参考になりました。よく考えます。

 


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問いD
 

 教えて頂きたい事が御座いまして、失礼かと思いましたが、お暇の在ります時で結構ですので、宜しくお願い申し上げます。
 それは「徳川 家康」の『人生訓』の中の一節に、(及ばざるは 過ぎたるより まされり)と言う言葉がありますが、この言葉の内容が理解不能です。
 つまり、簡単に解釈をしますと、(知らない方が知り過ぎている者よりも良い)と捉えてしまいます。この言葉の言わんとしている、本質の意味はどう言う事なのかが解りません。何方様に尋ねましても解らないのです。
 くだらない事をお訊きしまて申し訳ございませんが何卒宜しくお願い申しあげます。昨年イヤもっと前からの悩みでした。今年はこの言葉の本当の事が知りたいと思いまして、思い切ってメールを差し上げました。

住職の答え

 

 この度はメールをくださり、有り難うございます。
 さてご質問の「及ばざるは 過ぎたるに まされり」ですが、家康の格言としてよく知られた言葉の一部ですネ。 

 お釈迦様のお覚りの中で、「中道:ちゅうどう」というものがあります。二つの両極端から離れた自由な立場(中:チュウ)を実践すると言うことです。「何事にもこだわってはいけない」という事だと思ってもらえばいいかも知れません。
 私達は、一つのことにこだわって生活することが多いようです。「我慢しなければいけない」と言われれば、それにこだわって、しすぎるほどの我慢をしてしまいます。「努力が大切」と言われれば、これまたそれにこだわって、努力をしすぎてしまう方も多く見られます。どちらかというと、こういう面が日本人の美徳であるとか、新潟県人の良い特色であると言った評価がされているのではないでしょうか。
 しかし、何事にも「こだわること」は、仏教では正しいこととは言わないのです。
 では、我慢や努力をする必要はないんだ!そんなことにこだわってはいけないんだから、我慢も努力もしないで勝手気ままに暮らせば良いんだ!と言うことになるのかというと、これも大きな間違いです。これは、「こだわるな」と言うことにこだわってしまった姿です。
 こだわりすぎることも、全くこだわらないことも、どちらも両極端ですから、どちらも間違った生き方です。このような両極端から離れ、それを乗り越えた世界で生きていくことが「中道」につながるのです。もちろん大変に難しいことで、私達凡夫には実践できにくいことですが、その心構えの一つとして、家康の格言は大切なことを教えてくれているように思います。

 病気の時にお医者様が薬を出されるときには、多少効き目が弱くとも副作用の少ない薬を先ず使われるのではないでしょうか。その後の様子を見て少しずつ強い薬に変えて行かれることもあるでしょうが、いきなり効き過ぎるほど強い薬を出して、その病気は治っても患者さんが別な副作用に苦しむよりは、少し効き目が弱い方がよい、と言うことでしょう。まさに「及ばざるは 過ぎたるに まされり」です。
 「何事にもこだわらない生き方」とは、そういったものかも知れません。いきなり最高の結果をめざして何事かをついしすぎてしまうよりは、むしろ少し足りない程度にとどめる心構えで生きましょう、と言うことでしょうか。

 ご質問の中に「知らない方が知り過ぎている者よりも良い」という言葉がありましたが、あるいはそうかも知れません。私達が知るべき事や知りたいと思うことには限りがありません。常に新しいことやもっと深いことを知りたいと追求し続けることは、人生を楽しく豊かなものにしてくれます。その中で、「全てを知り尽くしたい」という事にのみこだわって生きるより、「私はまだまだ知らないことが多くて、うれしいな」と思って生きることの方が勝っているのではないでしょうか。
 余りよい答えにはなりませんでしたが、私なりの思いを書いてみました。ご笑覧ください。
 今度なにかの機会にでもお会いできることを楽しみにしています。

頂いたご返事

 

 このたびはお忙しいにも関わらずに早速のお返事を頂きまして、感極まって居ります。本当に有難うございました。優しく解りやすい説明に改めまして、何回も読み直して居ります。
そう言うことでしたのですね,,,,,
 漸く理解できました。私はこの意味が解らないで本当に困っていました。ご住職様ならと考えまして、お尋ねしてみまして本当に良かったなと思って居ります。
 理解できましたのですから、このことをなるべく実践と言いますか心に置いて生活させて頂きます。このようなことをしっかりとしたお返事を頂きました事に、感謝申し上げます。
 最後になりましたが、ご住職様 はじめご家族様のご活躍をお祈り申し上げまして失礼させていただきます。
 今後もどうぞ宜しくお願いもうしあげます。


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