いただきますに思う

平成12年8月林徳寺仏教壮年会報「誠心」掲載

 

 先日、夕刊を眺めておりましたら、連載の囲み記事の中に「いただきます」について書かれたものが目にとまりました。その内容は「いただきます」の言葉の中には料理の材料を育てたり、作ったり、あるいは獲って来たりしてくれた人々、料理をしてくれた人々に対する感謝の心がこめられている、といったようなものでした。

 ちょっと見たところ非常に立派な考えではありますが、私には一番大事なことが忘れられているのではないかと思われました。その料理にかかわるすべての人々に感謝するのは尤もなことです。

 でもそれだけで良いのでしょうか。食卓に並んでいる肉や魚、野菜、果物には感謝することはないのでしょうか。もとはと言えばすべて生きていたものです。「食べる」という行為は、何千何万という命を「いただく」ということにほかなりません。私どもの前にわが命を投げ出してくれた食べ物のひとつひとつにこそ、感謝の言葉を贈るべきではないでしょうか。

 皆様ご承知の事とは思いますが、私ども浄土真宗の食事の言葉をここに掲げます。

      (食前の言葉)   みほとけと、みなさまのおかげにより、
                 このごちそうをめぐまれました。
                 深くご恩をよろこび、ありがたく
                 いただきます。

      (食後の言葉)  尊いおめぐみにより、おいしく
                 いただきました。
                おかげで、
                 ごちそうさまでした。

 これらの言葉には、食卓上の食べ物すべてに感謝する気持ちがあふれているとともに、この食事にかかわってくださった人々への感謝も忘れずに述べられています。

 とかく私どもは、人間には感謝しても他の命への感謝の気持ちは忘れてしまいがちです。それは食事だけに限りません。たとえば病気が治ったとき、お医者様や看護婦さん等の医療現場のかたがた、心配して見守ってくれた家族にはたいていの人が感謝します。けれども、ひとつの薬を実際に人が服用できるようになるまでには、幾万もの実験動物が尊い命をささげ犠牲になってくれたことには思いがおよびません。

 つい先ごろご往生なさいました大谷嬉子前裏方様のお歌に

       千万(ちよろず)の  いのちの上に  築かれし

       たいらけき世を  生くる悲しさ

と詠まれた物があります。数え切れないほどのたくさんの命を踏み台にして今この私がある、そのことがひしひしと伝わってくるお歌です。

 「いただきます」の一言でも、そこにこめられた意味をどのように受け取るかで、その人の生き方までがわかるように感じられたことです。