愛する事

平成11年8月林徳寺仏教壮年会報「誠心」掲載

 

 作家の五木寛之さんの書かれた本に、『生きるヒント』があります。角川文庫から5冊に分かれて発売されていますので、一度お読みになってはいかがでしょうか。

 ご存知のように五木さんは熱心な真宗門徒で、『蓮如』『他力』など多くの、浄土真宗の教えにもとづいた本を書いていらっしゃいます。そしてそれらがベストセラーになっていることは、私たちにとって大変うれしくまた心強いことです。

 さてその『生きるヒント2』の第K章に「愛する」という表題の文があり、ここにある若い母親の夫との会話が載せられています。「この子が産まれてから今日まで、それこそ死ぬほど大変だったけど、でも、すごくたくさんのよろこびもあったわよね。この子のおかげで、お互いにどれくらい生きがいを感じさせてもらったか、口ではいえないほどだわ。そのことを考えてみると、親たちの人生の一時期にこんなキラキラする充実した時間を与えてくれたのだから、もうそれ以上どうこう望むのは欲が深すぎるのではないかしら。だから、後で親孝行なんてしなくたっていいの。親孝行なんて、私、ぜんぜん必要ないと思う。」このような言葉ですが、皆さんはどう受け取られましたでしょうか。

 私も3人の子どもを持つ親です。親として子どもを大切に思い、心からかわいく思っています。そして同時に、こんなに大事にしてきたのだからこんなに愛しているのだから、子どもがそれに応えるのは当然なことだという思いがあるのも確かです。しかし先ほどの若いお母さんの言葉とそれに対する五木さんの言葉を読んで、ちょっと違うのかもしれないな、と気付かされた思いがいたしました。

 親が子どもを産むことも、そしてその子を愛することも、考えてみるまでもなく、すべて親が勝手にしたことです。子どもはそれを親にこい願ったわけではありません。それにもかかわらず、産まれた子どもは、さまざまな喜びや感動、そして生きがいを親に与えてくれます。親はその見返りを求めるどころか、むしろ感謝して合掌して、子どもに礼を言わなければならない。そのように五木さんは書いておられます。本当にその通りであると教えられました。人が人を愛すると言うことは、それが親子の間に限らず、夫婦、兄弟などさまざまであっても、自分がそうせずにはいられないから愛するのです。こっちが勝手に愛するのですから、その見返りを要求するほうが変でしょう。

 しかしそうはわかっていても、なかなかに納得できないのが私たち人間です。自分がこんなに思っているのに、こんなに心配してやっているのに、相手はそれに応えてくれない。裏切られた。と、勝手に傷つき、勝手にうらんでいるのが私たちの姿です。テレビドラマの影響でしょうか、現代の私たちは、こちらが一生懸命やれば必ず相手は応えてくれると言う思い込みがあるような気がします。私たちは、愛した分だけ愛されなければならない、と思っているのではないでしょうか。それだけにその期待が裏切られたときのショックは耐えがたいものでしょう。現代の家庭内の問題は、このような所から産まれているのかもしれません。

 私たちは、子どもを愛しているのではない。愛させていただいているのだと、五木さんがおしゃるように、感謝し合掌することが大切なのでしょう。お互いにそのような気持ちを持ち合っての毎日が送られたならば、ありがたいことであると思います。