「仏の命」を生きる

平成9年8月林徳寺仏教壮年会報「誠心」掲載

 

 近年、神戸市での小学生殺人事件をはじめ、実に多くの殺人事件がおきています。また、いじめによる自殺と言う昔はあまり聞かなかった出来事も、今は珍しくなくなっております。友達にお金を持ってこないと殺すと脅かされ、殺されるくらいなら自分で死ぬと自殺をした、などと言う新聞記事を読みますと、悲しいというよりも恐怖を覚えます。

 なぜこのように、人の命が軽々しく扱われてしまうようになったのでしょうか。

 私は昨年(平成8年)、新潟県青少年問題協議会の専門委員として、『子供たちの「生きる力」を育てるために』と題する県知事への意見具申書を書くお手伝いをさせていただきました。このとき、同じ委員でおられた新潟大学教育人間科学部の山岸教授から伺った事ですが、「人間の場合は他の動物と違って、自分の子供に対する愛情や養育行動が本能ではない」―前記の意見具申より抜粋―と言うのです。つまり、私たち人間は生まれながらにして我が子をかわいいと思うことができる能力をもっているわけではない、と言うことです。私たち人間は、勉強しないと、自分の子どもをかわいいと思ったり育てたりする事ができない生き物だったのです。

 しかし幸いに、昔の日本にはそれを自然に学べる環境があったために、私たちはあまり困る事がありませんでした。昔の人たちは子供は授かり物だ恵まれものだと教えられ、ひとたび子宝に恵まれれば家族は元より地域の人々からもよかったよかったと喜ばれ誉められて父となり母となったのではないでしょうか。子育てに困っても、自分の親を始め多くの兄弟、地域の人々すべてが一緒になって助けてくれました。

 ところが今では、そのような人と人とのつながりがなくなってしまいました。子供をかわいいと思う心を学ぶ場所がなくなってしまったのです。子供は授かったものだ恵まれたものだと教えてくれる人がいなくなってしまったのです。

 そしていつのまにか、子供は親の都合で作ったり作らなかったりする品物のようになってしまいました。また、夜泣きがうるさいからと小さい子供をたたいたり、親が遊ぶ邪魔になるからと暑い日中に自動車の中に置き去りにしたりという事も普通にされるようになりました。

 親がこのような事ですから、その子供はいよいよ我が子をかわいいと思う心など学べようはずがありません。我が子でさえかわいいと思えない人間が、他の命を大切に思えないのも当然のことといえるでしょう。最近は犬や猫を飼っても、ちょっと病気になったり怪我をしたりすると捨ててしまう子供が多いといいます。ぬいぐるみの人形と同じように扱われているのです。本当に恐ろしい事であると思います。

 私たちは今一度、命の意味を考え、その尊さを子や孫に伝え残していかねばなりません。私たちは仏様から預かった命、仏様の願いがこめられた命、「仏の命」を今生きているのです。そしてそれは私たち人間だけの事ではありません。『歎異抄』第5章に親鸞聖人の言葉として

 一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり

とあります。すなわち、人間のみならず一切の命あるものはすべて私の父母兄弟であると言われているのです。我が子はもちろん、犬や猫も、道の草花も、すべて「仏の命」を生きる父母兄弟であると気づかせて頂かねばなりません。