凡夫というは   無明煩悩   我らが身にみちみちて

 

平成15年8月 林徳寺仏教壮年会報「誠心」 掲載

 

 表題の文は御開山親鸞聖人のお書きくださった『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』にある言葉です。もう少し詳しく引用しますと、「凡夫というは、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと水火二河(すいかにが)のたとえにあらわれたり。」(『浄土真宗聖典 註釈版』)という文です。

 「凡夫」とは「平凡な人」といった意味で、要するに私のことであります。また「煩悩(ぼんのう)」とは「身心を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげるこころの働き」を言う言葉で、その中でも根本的なものが「無明(むみょう)」であるとされています。この「無明」とは「物事の正しい道理を知らないこと」を言います。

 「私には物事の正しい道理がわからないために常に心が乱されて、欲がおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが休むひまもなくわき起こって、臨終のその時にいたるまで無くなることがない」といった意味の言葉であると思われます。

 ここで言う「正しい道理」とは、「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)諸法(しょほう)無我(むが)」といった言葉で表されるもので「我々の周りにあるすべてのものは常に移り変わるものであり、実体はないものである」という仏教の教えを意味しています。

 しかし私たちは、その実体のないものにこだわって普段暮らしています。お金であったり、服や貴金属や車であったりと、確かにすぐに消えて無くなるものですし、死んだ後に持って行くことのできないものばかりであります。それは頭でわかっていても、それでもやはりそういったものへの執着を捨てることができないのが私であります。そしてその捨てることのできない執着から、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」がわき起こってくるのです。隣に倉が建つと腹が立つと昔から言われているのが私の姿であります。

 そしてこの私の本当の姿にもっとも気付いておらないのが、これまた私であります。「人のわろきことはよくよくみゆるなり。我が身のわろきことはおぼえざるものなり。」(『蓮如上人御一代記聞書』)と、蓮如上人が教えておって下さる通りであります。あの人に比べればまだ私なんて、といった思いでしか自分を見ることができない私であります。

 親鸞聖人が教え残してくださった浄土真宗のみ教えは、このような煩悩を消し去ってくれるものではありません。信心をさせていただいても、我が身の煩悩は決して無くなることはないのです。しかし、我が身の真実の姿に気づかせていただくことができるのが御信心でありましょう。

 残念ながら決して変わることのない私の本性でありますが、それに気付いて生きることと、気付かぬまま生きることの違いは、たとえようもなく大きいように思います。

 英語で「サンキュー」といえば、「あなたに感謝します」という意味の言葉です。これに当たる日本語には「ありがとう」「おかげさま」などたくさんありますが、これらの日本語と英語の「サンキュー」には大きな違いがあります。「サンキュー」は、「アイ ・サンク・ユー」の省略で、「私は、あなたに感謝する」の意味ですから、中心は「私」です。

 一方日本語では、たとえば「ありがとう」とは「有り難い」から出た言葉で「めったに受けることの出来ない恩恵・好意・配慮に接して、身の幸せをしみじみと感じる様子だ」という意味であると辞書に説明されていました。中心はめったにない恩恵などを施してくださった相手方であって、「私」ではありません。「おかげさま」も言うまでもなく相手方に中心をおいた感謝の言葉でありましょう。

 このような感謝の言葉が日本語として根付いているのは、私たちの祖先である日本人が、「私」を表に出す生き方を戒めてきたことの現われでありましょう。感謝を表す言い方にさえ「私」を中心におく国の人々と、相手方に中心をおく言い方をしてきた私たち日本人との考え方の違いは、大きいものがあります。

 無明煩悩がみちみちた我が身であると気付いて生きてきた私たちの祖先は、少しでも「私」を押さえる生き方をしようとつとめてきたのでしょう。

 自分たちの考え方のみが正義でそれに反対する人や国はすべて悪であるとするような、現在のアメリカなどのやり方を見るにつけ、私たちは、親鸞聖人が教えてくださり先祖が守り続けてきた仏教の教えを、今こそ世界に伝え、広めていくべきなのではないかと思われてなりません。