人在世間愛欲之中 独生独死独去独来

 平成14年8月林徳寺仏教壮年会報「誠心」掲載

 皆様も新聞等の報道でご存知のように、本願寺第二十三代宗主、 勝如(しょうにょ)上人(大谷光照(こうしょう)前門様)6月14 日(金曜日)満九十歳でご遷化になりました。この林徳寺にも昭和三十四年にお立ち寄りをいただき、本堂前にはその際お手植えのヒマラヤスギが大きく成長しております。当日は、ご門徒の皆様を始め地域の皆様など五百名もの参拝者があり、百名近い方々が帰敬式(おかみそり)を受けられました。今思いますと当時の前門様はまだ五十歳前で、ちょうど今の私と同じ年代でおられたことになります。一寺の住職でさえ満足につとめられない自分の姿を思いますと、若くからご門主としての激務を見事にこなしておられたことに、心から尊敬の念を覚えます。

 また7月10 日(水)には、私の弟哲雄の義父に当たる、長岡の西福寺住職、藤井宏寿(ふじいこうじゅ)師が満七十歳を持ってご往生をされました。一ヶ月ほど前に倒れられたまま、とうとう意識が戻ることがありませんでした。私も、与板町にあります本願寺新潟別院の新築工事に当たって、藤井師が財務局長、私が主計部長という役職をいただいたことから、この間様々にご指導をいただきました。ようやくこの八月一杯で別院の本堂が完成し、九月にはお裏方様にお出でいただいての御遷佛 (ごせんぶつ)法要、来年にはご門主様ご導師による落慶慶讃 (らっけいきょうさん)法要と、苦労が報われる時期でありました。まことに残念でなりません。

 さて表題にいたしました言葉は、『仏説無量寿経』にある言葉です。「人、愛欲の中にありて独 (ひと)り生まれ独り死し、独り去り独り来 (きた)る」と読みます。私たちは、生まれるときも死ぬときも、ただ独りでその苦難と立ち向かわなければなりません。『仏説無量寿経』でこのすぐ後に、「身自当之無有代者身 (しん)みずからこれを当(う)くるに、代わるものあることなし)と書かれているように、誰に代わってもらうことも、その方法を指導してもらうことさえもできません。そしてその苦難がいつどのようにわが身に降りかかるかは誰にもわからないことです。

 お釈迦様が「生老病死」の四苦と教えてくださいました。その最初が「生まれる」苦しみです。お母さんのおなかの中で温かな羊水に包まれ、へその緒から栄養分をもらって何の苦労も無く暮らしている赤ちゃんにとって、冷たい空気にさらされ、みずから呼吸をし食事をしなければならないこの娑婆世界に生まれることは、さぞ不安なことでしょう。呼吸や食事といわれても、どのようにすることなのか推測することさえできないはずです。どんなにか生まれたくないと強く願っているのでしょうが、時期が来れば生まれなければなりません。

 同様に、やっと娑婆世界にも慣れその楽しさを知り、今度はこの世から去りたくないと強く願っている私たちには、「死ぬ」と言う苦が待っているのです。死んだ後のことは私たちには想像さえできません。「ただただ死にたくない」というのが私たちの正直な思いではないでしょうか。ちょうど赤ちゃんが生まれたくないと願うように。

 しかし、死ななければならないのはほかの誰でもないこの私のことです。今何歳であるとか、今健康であるといったことは何の安心材料にもなりません。そしてその私のためにいて下さったのが阿弥陀様です。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞、一人がためなりけり」(歎異抄)と言えるのは、他の誰のためでもないこの私のため、独り死んでいかなければならないこの私一人のために、お念仏があってくださったと聖人が味合われたからでしょう。

 誰にも代わってもらうことのできない私一人の人生を、阿弥陀様と共に、大切に生き抜いていきたいものです。